- 人間というものは克服されるべきあるものである、というのは大学一年生つまりTeenagerの時に読んだツァラトゥストラのどなたかの訳文だと思う。酔っぱらっているので原文を探せない状態。だが自分のこの数日間の悪戦苦闘を経て、「克服される」という受動の意味の酷薄さを噛みしめている。
- 昔から時々考えることがある。路上に血の滴る肉が当局に管理されながら清潔に置かれているという社会において、この肉はどこの誰の肉で、何故彼はここで肉塊になって路上に置かれているのか、ということを考える人はいるのか、あるいは考えることは許されるのだろうか。
- 「克服、という動詞は悪魔の呪文であり、とりあえずの気分で「上」の揚げ足を取っていれば現状維持はされるので私の「権限」は安泰です」という「子供主義」に対しては、「そうですか」と返すしかない。「ぼく、何もしたくない」という主張に対して、「駄目だ、やれ」と言っても木霊は返ってこない。
- 自分は彼らに克服することを求める。だからその返信として、自分は克服され物言わぬ肉の形に切り取られる。それでいいのだと思う。だがもしかしたら、人を愛さない心こそが本当は安寧の世界への鍵であり、生物の自然淘汰として「人間的な意味で」異物を愛する遺伝子が消えるのが正しい道筋だろう。
- 人の世は倒錯であり、その倒錯を少しずつやめて行くのが人が世に生まれた意味だろう。一滴も血の滴らない1ポンドの豚肉を夜に食べた。ほうれん草と煮て山葵醤油で食べる。常夜鍋という名前らしいが、一晩かけて物忌みするの意味が常夜では?と内のかみさんが言っている。
- 目が覚めると泥沼のような曇天だった。肌寒いが蒸し暑い。土曜日まで睡眠時間を削る以外に時間がない状態だが、それでも間に合うのかどうか。
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