- 欧州映画でも見る冷笑の演出が判らない。他者の人生を他者の人生として受け入れる=一応好きにさせてくれる、のルールの背後に冷笑があるのだろうか。死を意識している人は他人のおかしな体位や手首の動きを見て冷笑するだろうか。
- 両親は仲が良かったが、父親の度重なる借財に母親が恐怖で切れてしまってから、母は多分父を憎んだのだと思う。父親の心の冷たさを自分の前で描写したことがあった。父は今母が死んだベッドとタンスの隙間にベージュ色のソファを入れて寝ている。母がその時ぼくに何を言ったか、父が死ぬまで言わない。
- 登校する小中学生がいないので、夏の朝の道は広く感じる。桃色のポロシャツを着た老人が、田圃を観察している。筋骨隆々として、首が太い人。道端のケーブルのカバーを、黄色と黒で塗り分けている二人組がいる。子供たちには、お父さんのこの目を通して世界を見てごらん、とは言えないだろう。
- 俳句的何かを探すために、図書館裏の木立で耳を済ませてみたり、目に見えるものを何かの要素に還元してみたりする。それだけで様々な不思議な形のものが、次から次へと見つかって尽きることがない。二年ほど前までは、心をこの状態にするのは楽しい作業だった。
- お父さんの濁った目を通すと、世界がどんどん美しくなっていく「そんな嘘の世界を見るのは嫌だ」目が汚物を除去するので、水は澄んできて眼球はますます白く濁ってくる。世界をありのままに見る眼球が欲しいが、今から富を築くのと同じで絶対にできない。だがかすかに諦めきれない。
- 生身の人物よりも作品を通して解釈されたその人こそが真実のその人である、という数十年続けてきた大前提こそ、単なる迷信だったのではないか。いや、正確にいえば「死んだ人」にするべき方法を「生きている自分たち」にあてはめて生身の世界から離れたのは倒錯して目がくらんでいたのでは?
- いや、やはりこの考え方は違う。言葉をできるだけたくさんかき集めたり、集めた言葉をざくざく洗ったりすればするほどやっぱり真実に近づく。だがたとえ真実を手で掴んでも、真実には価値がない、ということだろう。真実を見るよりも見たい真実だけが見えてしまう、というのが人なのだ。
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