- 意外にも買ってきたギターの楽譜を使う時間があったので、4日かかって簡単なアリアを一つ、音を立てて引けるようになった。指と脳が駄目になっていて運指がなかなか定まらない。聞くのは気楽で弾くのは難しい。
- かつては指先は未来に直結していたが、それも思い過ごしだったのだろうか。なにか散文的なものを書く力が失われている状態なので、色彩を思い浮かべる。水色の夕焼けとか、物を通り抜けていく粒子の茶色とか。多分命を落とす人の記憶の色かと思う。
- だらだらやって、やっと下地の色を決めた感じだ。本当に情けないほど書くスピードが遅くなった。新宿駅から特急に乗って、国領の駅から南下して大きなケヤキのシルエットを雨の夜に見る。横に延びる枝を払われた細いケヤキだ。笛のように上に向かう枝ばかりだ。
- 画は下手であると自覚して学校に通っていたが、ケヤキの樹のエッチングは美術の先生が褒めてくれる。ケヤキの形が美しいと母親が言う。その命令を守っているのだろうか。木版でも深緑の水彩絵の具でもケヤキの樹の一点張り。
- 目黒区展に毎回選出豪語の家内と違い自分は一度だけ選出。同級生の木山さんの顔の彫塑粘土。「このごつごつの盛り上がりが正しい」と先生。何だかモデルにごめん、という気になったな。また、今の受講生の名を覚えられないのに小学校の同級生の名を記憶しているのは何故?
- 曇り空の日にガスタンクの方角を見て屋上で写生をした。「この絵がいいのは地平線を下にとって何もない空を大きく画いているから」と、また先生。だが自分は画業を目指さなかった。絵が下手だったから。そのための指を持っていなかったから。
- 弦楽器を弾くための指先がないため、音楽を批評できるが音楽を弾くことができない。批評と詩は心の同じ部分を使う。ゼーバルトを読んだ多くの詩人と批評家は「この方法ならオレも小説ができるかも」と感じるのではと、誰かが後書きか何かに書いていたはず。
- 詩と批評は双子なのだ。立体視された線を引く指を持たない画家、鳴らしてはならない弦に触れずにすむ指先を持たない音楽家が詩人になってしまう。その指を持つ者を讃える言葉をPoesieと定義できると思う。だが逆に言えば「私には指がない」と言っているのに過ぎないのかも。
- たとえそうだとしても生きている場所は指であり地面である。空を舞うことは余り重要ではない、と考えれば少しは慰めになるかも。高校生の時に北上川の土手で建設省の「北上川」の看板の写真を大まじめで撮った。恐山が見たくて家出するように自転車をこいで野宿の旅をしていた時だ。
- その看板には確か一級河川、と書いてあった。ざらざらの紺色だった。薄暗い白い文字だった。穀物が水を吸う音が聞こえる八月で、トラックが矢のような排気ガスを吐いていた。なんだかよくわからないスーパーマーケットでニンジンを買う。
- 下北半島を大間に向かって走っていると、海の向うに黄色い北海道の山の稜線が明晰に見える。下り坂、黒っぽい小屋のような郵便局と丸く赤いポスト。朝露のこびりついている投函口。函館に渡るフェリーで下らない手紙を書いた。親あてに書いておくべきだった。
- 止めどなく流れてくる自分のこのような記憶も、本当は自分の記憶ではなく、誰かの寸断された記憶(記憶は誰にとっても必ず寸断される)が自分の中に入り込んでいる。その感覚を持ったときだけ、ほっとして眠ることができる。死者の記憶が眠りの森だろう。
- Spiegelに炉に何かをかぶせるようなことを枝野氏・西山氏が言ったと書いてあるようだが、本当だろうか。廃炉後の話か何かと取り違えているのはないだろうか。
- この状況下だと確かに情報ノイズが凄すぎて普通の感覚を失いそうだ。裏をとっても意味ないからさっさと忘れよう。風向きを示すフラッシュなど、こういうものはいつもながら良くできていてありがたい。
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