- 行き詰まり自分の書いた過去のメモを見る。こういうことは捨てる美学のiPadでは無理でハードディスクの大切さが分かる。「人々は風景を描きながら、風景のことを思わず、自分自身のことを思っていた」とオレもなかなか洒落たことを書いていると感心したが、よく見るとリルケの一節の訳のようだ。
- RT@momonico: 7月末~8月中旬、福島第一原発で再臨界が起きていた? - 週プレNEWS http://t.co/ebPEbAS
- 「人間の中には自然の気高い手段によって自分を同じように真実なもののように語りたいという憧れがあった。こうして何もない海を描く者が現れた」これはF川先生等の訳か。自分なら「手段によって」という語は使わないはず。いずれにせよ人間を気高く描こうとする人はいない、今の日本なら。
- そう、自分が字を書いている意味の一つなんだが、25年くらい前までは我々の殆どは人間を気高く描こうとしていた、多かれ少なかれ。ある一時点から「俺たち駄目、もう無理」になった。「日本は素晴らしい」と学校で教えるようになった。我々の世代は「人間は素晴らしい」と先生に習った。
- 良い子は真似したらダメだよ。人間は素晴らしい、なんて言ったら学校で虐められるからやめなさい。日本は平和で自然が豊かで素晴らしい、と言っておきなさい。(ナショナリズムは負けを自覚した人の意識だよ、なんて言うのもダメだよ)
- 勝っている側、俺の方が強いと信じている側は普遍性が自分の方にあると感じている。だから「人間は素晴らしい」と言う余裕があるんだ。
- 流山の人と連絡が取れなくなっているが、大丈夫だろうか。流れ流れて流山、などと呑気なことを言っていた頃が懐かしい。いろいろ降っているだろうが、直ちに影響があるわけではないんでしょうから、そのうちに連絡がくるだろう。
- 朝日の交差点を女の人が渡っている。身体にピッタリつく短いスカートをはいているが、かなり年をとった人だ。歩きかたが不規則で、神経か循環器の病気があるのだと思う。人はここに死にに来ているなどと思ったことはない。欧州の都市の感覚だろう。この交差点は生きようとして人が通るように見える。
- 信号機の向こう、暗渠を挟んでプラッテンバウを縦横斜めに縮めたようなベトンの団地がある。その脇のこんもりとした盛り土の空白地帯は奈良平安の頃の国分寺跡だ。モンスーン地帯の自然は新陳代謝が激しい。
- 図書館裏の林を遠目から眺めてみると、桜、銀杏という国家公務員的な樹木の間にこの地の人の好きな山桃が混ぜてあるようで、各種樹木たちが伸び放題に葉を茂らせている。密生した緑の毛糸玉のようだ。あの影に入って本を読む自分は、ブロッコリーの緑の花の奥に隠れる小さな虫のようなものだ。
- テレビにティーパーティーと称して嘘つきそうな仕立てのいいスーツたちの拍手喝采しあっている様が写し出されている。我が国でもすぐに真似する人が現れそう。特に自民党かな、俺たちはこの人たち?と勘違いするのは。主義主張も理想もない。権力で遊ぶためのコピー元を探しているだけなのだろう。
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