- エルゼ・ラスカーシューラーが死ぬ前に書いた詩を気に入っていて、少し調べて訳してみたのだがヘタなのでがっくり。やっぱり詩の翻訳とうのは無理な話で、散文訳や解説つきがせいぜいでは。
- 頭は切れるが頼りにならない男の人がいる。生身の人間と渡り合う胆力がないのだろう。大局観はあるがリアルな世界には来れない感じ。結局自分しか頼れず的中突破すると覚悟を決めたのが昼飯前。まあ、やってのけるだろう。自分を倒せる人はいない。だが何を成し遂げても達成感はない。
- だが生身の人間と渡り合う胆力がない、というのは自分への批判にもなっているな。自分の場合には家族と向き合う気力がない。この欠陥をちょっと脇に置いておいて、とばかりにきれい事を言っているだけだから。
- だが大局観があるのにリアルは駄目、という人は、ある意味はた迷惑なのかも。暴走する思いつきの世界、ということだから。自分はリアルな世界を見続けた挙げ句に狂った世界を見るようになる、という今までの生き方を続けよう。もう欠陥も直せないだろうし。
- もう一回、だが、と書きたくなったがやめておこう。今日は夕方、ちょっと面倒くさい会議がある。自分が主導する議論する会議は楽しいのだけれど、公的機関では特に、会議で議論させないために必死に準備している人もいる。酒やネクタイの趣味が違うのと同じで、自分には理解できない。
- 望んだこと、夢見たこと、憧れたことは何一つ実現しないと本当はわかっているのに、何故生きなければならないのか、という問いに答えることはできない、こんな歳になっても。しかし無垢な子供の様子には何かヒントがある。私は願う、私は望む、は多分、生の本質ではない。
- 自分の心の前に鏡を立てて自分を観察するより、野原にある変な形の葉っぱや虫を観察した方がいい。見つめて受け入れる時の不可思議な感動や恍惚が生きるということで、人は主体ではなく受け身体だ。世界を変える者ではないし、世界に翻弄される者以上には成れるわけがない。
- あるいは心を飛ぶ矢に喩えれば、リルケの何かにあったように、飛ぶ矢であると同時に的でもある。思いは全て一方通行でリターンなんてあるわけない。ひたすら思うことのみが華なのであって、双方向のコミュニケーションなんて、自分も時々なるところの酔っ払いの戯言でしかない。
- 本当はかみ合っていないのに、かみ合っていると錯覚している会話、ということ。
- コミュニケーション能力を鍛えようなんて勧めない、繰り返しになるがそれは飲み屋で使うべき程度のものであって、まあそれを仕事で使ってもいいかも知れないが(仕事なんて酔っぱらいながらやる程度のものだから)、そんな能力があっても幸せにはなれない。ない方がすっきりしているかも。
- ひたすら望み続けて望みは果たされないまま、不意に消えることの美しさ以外には世界に何も存在しない。先日子供のことを考えていて文具の店で知人に出くわした瞬間、何の拍子かぼやっとひらめくものがあったのだが、長い言葉で要約するとだいたい上記の通りである。
- だが、自らが何者であるかを証明しなければならない思春期の人に、自分のこういうイデオロギーは届かない。自分も若者の頃はロマン派を嫌うゲーテをバカにしていた。要するに自分もひどく歳を取った。
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